伊藤新道

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北アルプス 三俣山荘・雲ノ平山荘・水晶小屋・湯俣山荘 公式サイト  

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伊藤新道の歴史と現在  

  当時、三俣小屋は上高地から入山する道と、烏帽子から入山する道しかなかった。どちらから入山しても三俣まで2日かかる。往復すれば4日、天気が崩れれば5日、6日と1往復でもかかってしまう奥地だった。

 背負って歩くしかないこの時代に、この場所で山小屋を建てることは実質不可能であった。歩荷1人が、往復で食べる食料は米だけで20kg以上(一食に一升を4回食べた)。食料を持った上に材木となると、少しの重量しか運べずいつになっても小屋を建てるための材料はそろわない。小屋を建てるためには街から1日で登れる道がなくてはならなかった。どうにか街から1日で・・・・。
 このようなことから生み出されたのが伊藤新道だった。
 戦後1年目の昭和21年、伊藤正一が初めて湯俣川を下って以来7年間は谷全域を歩き廻り、ルートを決めるために調査に費やした。昭和28年から着工。岸壁をダイナマイトで壊して道をつける作業であった。3年後の昭和31年秋に完成。それからは、三俣、雲ノ平の小屋を建てるための歩荷による運搬が始まり、7年がかり(昭和38年)で両小屋とも完成。それから十数年間、登山者と山小屋の生命線として、最奥地の登山をささえることとなる。

img_958.jpg伊藤新道から見た硫黄尾根と槍ヶ岳

DSCF0051.JPG眼下の湯俣川へと下る

 しかし誤算もあった。昭和44年からの高瀬ダムの工事により、登山者が激減。さらに昭和54年の完成で大量の水を貯水したことにより地下水圧が上がり、ダム周辺の山全体が膿んで崩れやすくなった。湯俣の谷も各所が崩壊、桟道も落ちてしまった。そして、ダムゲートにて交通の制約、大町からのバスの廃止で高瀬からの入山がしにくくなってきた。また湯俣川のあちこちから出ている亜硫酸ガスによって吊り橋のワイヤーが腐食。登山者の激減に伴い、細かな手入れもままならず5つの吊り橋は全部落ちてしまい、昭和58年を境に通行することが困難になった。
 現在一見荒廃したように見える湯俣の谷だが、ダムによっておこった地下水圧の変化に対応するために、土地自身があえて対応できる地形まで崩れたり、脆くなった地形を安定させるために木々たち(カラマツ、オオシラビソ、クマザサ)が急速に成長している姿もそこかしこで見られる。また崩れた土砂が湯俣川に流され、ダムにたまってきた。自然がダムという傷を埋めるために動いているように思える。 

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